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ねこがしんだ
幼い頃、迷い込んできた猫に、余っていた飯をやった。
ただの気紛れだったのだけれど、次の日にまた見かけたその猫に飯を投げてやった。そうやって、毎日とはいかなくとも、数日おきに猫はやって来るようになり、余りものでしかなかった筈の飯は、いつの間にかそのために余らせるようになっていた。
幼かった自分は、ただ純粋にそれを可愛いと思っていた。
ある時庭にやって来た猫は、ひどく汚れて衰弱していた。縄張り争いでもしたのだろうか、ひどい怪我をしたその細い体を、その時になって初めて抱き上げた。
おそらくは助からないだろうと心のどこかで思っていた。けれど抱き上げてしまったそれを放り出すことも出来ず、日に日に弱っていくその小さな命を日当たりの良い片隅に置き、気にしていた。
弱々しく鳴いて、よろよろと倒れそうな足取りで、猫はそこを離れていった。己の命が尽きるところを見せないのだ。と、誰かが言っていた。けれどやはり、ひどく衰弱した体で遠くに行ける筈もなく、後日、痩せ細ってぼろぼろの姿でひっそりと息絶えているのが見つかった。
死というものを、間近で見た。
ずっと可愛がって、一緒にいて、飼っていた訳じゃない。ただ気紛れに飯を投げてやって、だからこそここに足を運んでいて。それだけの関係だった筈なのに、ひどく悲しくて、ぽっかりと胸に穴が空いたような感覚。
時折、もういないと判っていながらも、その辺りから顔を出すのではないかという錯覚。
あんな小さな命ひとつ。それだけで、これまでと何かが変わってしまったような・・・
けれどそうして、いくつもの愛しい者、命を失っていくうちに気付く。
どれだけうちひしがれ、心を曇らせ、それこそ、誰よりも愛しい者を失ったのだとしても、己は生きている。
どんなに重く暗い気持ちになって、もう起き上がることも出来ないんじゃないかと思っても、朝になれば陽は昇り、どんなに悪天候が続いたとしても、永遠にそうなるわけではない。
それを思うと、ヒトとはなんと小さなものか。
今でも時々、庭に目を向ければ、あの時の猫がひょっこりと顔を出すのではないかと思ってしまうことがある。そうして目を向けた外に、変わることのない日差しを見て、失われることのないものがあると、実感するのだ。
毛利でした。こう・・・日輪に対する思いはどこから来るのかな?とかずっと思ってて、まぁそんなとこを・・・しかしまぁ、漠然としすぎててアレですね。
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